めるノート

一児の母 兼 へっぽこWebエンジニアの内省ノート

どう認識して行動に繋げるのか対話するのが好き

先日、会社の『SREの探求』輪読会で「28章 SRE の認知的作業」の章を担当した。この章の担当希望を出したのは1年以上前なのでうろ覚えだけど、多分ざっと読んだ中身が好みだったんだと思う。実際、めちゃくちゃ面白かった。内容をあまり書くとネタバレになってしまうので雑にまとめると、インシデントなどの不測の事態に備えるため、かつ日々起こる大小のインシデントをきっかけに、運用しているシステムについて把握していく、みたいな話だった。すごく雑なので「ん??」って思った人は原著を読んでほしい。

自分が面白いと思ったのは、人間がシステムについて把握するときには各自「メンタルモデル」という技術に対する認識があるという話で、人間はそのメンタルモデルを表現することを通して動いている技術それ自体を推論していく、というのである。このシステムはどういう仕組みでどういうI/Oをするのか、それをあなたはどう捉えていて、(特に非常時の)行動の根拠としているのか それをチームで共有していくことが大事だと書かれていた。この書き方もすごく雑なので「ん??」って思った人は原著を読んでほしい。

これを読んで気づいたのは、自分は(前提として存在はしているが)技術それ自体への好奇心よりも、他人のメンタルモデル(どう認識して行動に繋げるのか)の表現への興味がありそうだということ。 これは楽器をやっていく中でもそうで、演奏する時、楽典や音楽ジャンルで定められている決まりや、原曲とか他の人の演奏の中にあるアプローチをこう解釈しているので、自分はこうやって演奏したよ、みたいなのを対話しながら練習していくのが好き。もし対話できなかったとしても、自分の中でちゃんとそういうのがあるし、聞かれればたいていは言語化できる。

学生時代は楽器を教えることもあったし、仕事でも前職では人に教えることもあったけど、そういう対話をしてきたなあと思っていて、自分は特に他人のメンタルモデル(の表現)への興味があるので、教えるときはまず相手のメンタルモデル(どう認識して行動に繋げるのか)を確認してすり合わせていく作業から始めた。たぶんそれは、「音はその音でしかなくて、言語化は音の比喩にすぎない」ということと、「人間が技術それ自体と直接通信できない」ということが関係しているのではないかなと思う。かのニーチェの「事実というものは存在しない、存在するのは解釈だけである」という一文が、ずいぶん前から自分は好きだったりする。

一方で、自分が教えてもらう側のときに「いろいろ経験しないと君にはわからないよ」と言われる(あるいはその過程は必要ないとみなされて結論だけ言われる)などして、その対話の過程をすっとばされて終わってしまうと突き放された感じがして必要以上に悲しくなることがあって、自分は成果物の完成度と同じかそれ以上にメンタルモデル(どう認識して行動に繋げるのか)に関する対話の過程を重視してしまっているから、それって本当にどうしようもないヤツじゃんと落ち込んだりする。

amzn.to